Shichirigahama Town Community

住民協約成立の経緯

住民協約成立の経緯

神野公三

七里ガ浜分譲地が造成されて間もない昭和45年頃になって家も徐々に増えてきて漸く住宅地らしくなってきたが、建てられる家の中には独創的なものもある中で、三階建ての家や一区画に数件の貸家が出来たり、住居区域に商店が出現したりして、良好な住環境にふさわしくない状態が多くなり、当時環境問題としてとりあげられ会員多数の賛同のもとに「建築協定」の推進運動を自治会活動の一環として展開すべく「建築協定推進委員会」が昭和47年に組織された。

記録によれば自治会の委員会とは別格の委員会組織であったようである。この問題は私的権利の制約を含んでおり、土地所有者の100%の合意を必要とする協定であり、この成立は当初より無理であった。この運動は数年間曲がりなりにも続けられていたが、昭和52年頃自治会がこの運動の基本精神を継承することとして、推進委員会は解散した。

昭和55年春頃、会員有志による「環境協約準備会」がもたれ各支部長の参加も得て、他自治体や市内他地域の実例も調査し、翌57年10月に組織された「環境協約小委員会」に合流して、58年2月にその頃発足した環境保全特別委員会に答申した。

この答申案は約1年間凍結されて環境委員会では本案を審議するための小委員会を組織することを決定し、委員を公募したが、1名しか応募者がなかったと記録されている。その後小委員会での審議がどのように継続されていたかは詳らかでないが、本環境協約案が答申されてから約3年余り後の、昭和61年6月の理事会報告で本件は継続審議にすることで審議は終了した。その理由は「環境協約は法的拘束力がないとは言え私有財産の利用の制限を約束するもので、自治会としては慎重にならざるを得ない」ということであった。具体的事例が起きたときは協約の内容を尊重し適切に対応することとし、又「環境協約推進の街」の自治会の立看板が、まち角の数ヶ所に立てられたのはこの頃である。

当時作成された環境協約小委員会(座長岩沢詢和氏)の「環境協約案」は大変参考になるので答申書の一部を紹介する。
(ハイビスカス38号昭和58年4月)

戻る